東京芸術大学工芸科を卒業後、絵画教室「子どものアトリエ」を開き、集中してよい絵を描く幼い子どもたちに出合った西巻さん。1968年に日本版画協会展新人賞奨励賞を受賞した西巻さんの作品が、こぐま社を創設し石版画(リトグラフ)を応用した本づくりを模索していた佐藤英和氏の目に留まりました。手紙をもらって西巻さんがこぐま社を訪ね、ブレーンの人達と会ったのが5月。「何かテーマを決めて描いていらっしゃい」との言葉に、ボタンや裁縫箱の絵を何枚か持っていくと、スタッフの中村成夫さんが、物語としてつながるように考えてくれ、改めて原画を描いて、処女作『ボタンのくに』が出版されたのが8月でした。西巻さんの中に育っていた子どもと絵本への想いが、「世代を超えて読み継がれる絵本を日本の子どもたちに届けたい」という編集者佐藤英和氏の情熱と出会って、一気に形になりました。
こぐま社で佐藤氏が収集した欧米の絵本を見て学ぶうち、当時日本で主流であった、童話や民話に挿絵をつけた絵本ではなく、レオ・レオーニ『あおくんときいろちゃん』(米59年)のような、絵が物語を語る絵本を創りたいと、3作目『わたしのワンピース』のラフスケッチを作りました。ブレーンの人たちから「花畑を通ると、なぜ花模様になるのかわからない、お花が好きだ、花畑を転げまわったなど、理由の解る頁が欲しい」と言われるものの、そういう「意味」をつけるのはいやで、自分の主張を通しました。けれども、ラフスケッチで描いてあった、流れ星になっているうさぎの絵は「地球に激突してかわいそうだ」と言われ、現在の流れ星だけの絵に。今でも、子どもに、この場面で「なんで、うさぎさん、いなくなったの?」と聞かれることがあるそうです。
『わたしのワンピース』は、当初書評で取り上げられることもなく、受賞することもありませんでしたが、5~6年経ったころ、東京子ども図書館の方が、図書館でいつも貸し出し中の「書架にない本」として朝日新聞のコラムで紹介。子ども自身が認めてくれたことがとてもうれしかったそうです。また、その頃から、子どもと本が出合う場にいる大人からも徐々に評価されるようになり、10年たった頃には代表作と認められるようになりました。関谷さんご自身も、どうして子どもが、そんなに『わたしのワンピース』を好きなのかわからなかったが、娘さんに読んであげていたとき、「くさのみって、とっても いいにおい」の場面で娘さんが本をひったくって「あ~ぁ、いいにおい」と息を吸ったことがあって、この本は、子どもにとって、匂いまでする本なのだと、腑におちたとのこと。
西巻さんは、子どもには、いいものとつまらないものを見分ける感受性が備わっていると、おっしゃいます。子どもは、上手とは違う「いい絵」を描く力を持っている。そういう子どもの感受性を、「感受性だけではこの社会でやって行けない」と知っている大人が踏みつぶし、大人の頭にあるいい絵を描かせようとする。「子どものために」「子どもがわかるように」ではなくて、子どもに真正面から向き合って、50年描いてきたとおっしゃいました。 絵本は、作るのも売るのも買うのも大人、でも、読んで楽しむのは子ども。よい絵本をつくるためには、誰に向かって、何のために描くのか、受け取る子どもとのコミュニケーションが不可欠と、編集者の関谷さんはおっしゃいました。
今年、出版50周年を迎え、『わたしのワンピース』は現在188刷、発行部数は178万部を超え、こぐま社を支える読み継がれる本の一冊になっているとのことです。この夏には、神奈川近代文学館で、「『わたしのワンピース』50周年 西巻茅子展—子どものように、子どもとともに」も開催され、新作絵本『いえでをした てるてるぼうず』の出版も予定されています。
戦後日本の絵本づくりの活写された興味深いお話でしたが、読み継がれる絵本とは何か、子どもと絵本を読むことの意味、今という時代に子どもの心と向き合うことの大切さ・難しさを、改めて考える機会になりました。保育者を志す学生たちも思うことの深かった様子です。来場者からも充実した時間が過ごせたという、熱のこもった感想が寄せられました。終了後のサイン会では、西巻さんが、一冊一冊に、ていねいに絵を描いてくださいました。