茨城キリスト教大学

アンネのバラ

キリスト教センターがあるキアラ館前の花壇には、『アンネの日記』で知られるアンネ・フランクゆかりの「アンネのバラ」が植わっています。このバラは次第に色が変わり、つぼみの真紅の色がアンネの生きようとする強い意志を、花の黄金色がその優しさと清楚さを、そして、散り際のピンク色が平和への願いを象徴しているかのようです。

苗木の配付

キリスト教センターでは毎年、子供たちに命の尊さと平和の大切さを知ってもらおうと、バラの苗木を幼稚園・保育園や小中学校、その他の団体・施設などに配布しております。「子供たちの心の庭にアンネのバラが咲き始めている」。お配りした学校から、そんなお便りをいただいています。

アンネ・フランク

『アンネの日記』で知られる悲劇の少女、アンネ・フランク。6月12日がアンネ・フランクの誕生日です。ちなみに、アンネにとって、その13回目の誕生日に、父オットー・フランクより贈られた日記帳に、あの『アンネの日記』は綴られることになったわけです。

アンネ・フランクは、1929年に父・オットー、母・エーディトの次女として、ドイツのフランクフルトに、ユダヤ人として生まれました。やがて、ナチスが台頭し、ユダヤ人迫害を始めると、フランク一家はそれらを避けるために、オランダのアムステルダムへ移住。そこで、父オットーの経営する会社兼倉庫の屋根裏部屋をいわゆる『隠れ家』として居住することになりました。そこにはフランク一家以外に、もうひと家族(いわゆるペーターの一家)、さらには歯科医フェファー氏も住むことになりました。しかし、やがて密告により、隠れ家の存在がナチスにばれてしまい、隠れ家の住人はすべて連行され、強制収容所に送らてしまうのです。結局、アンネ・フランクは終戦の直前、送られた収容所で、十五年の短い一生を閉じることになりました。ちなみに、あの隠れ家の住人の中で、生還できたのは、アンネの父オットー・フランクただ一人だけだったのです。そんな彼が「アンネのバラ」を作ることに・・・

アンネのバラ

生還したオットー・フランクはやがて生前アンネがのバラを好んでいたことを思い出しました。そこで、ベルギーの園芸家デルフォルゲ氏に頼んで、その野バラから新種のバラ「アンネのバラ」を作ってもらうことにしました。こうして誕生したのが「アンネのバラ」であり、そこにはアンネの願った「命の尊さ」、「平和の大切さ」が込められているのです。そのバラがやがて、日本に・・・ 

シオンのバラ

今から四十年以上も前、日本のある教会のしののめ合唱団という聖歌隊がイスラエルを演奏旅行をします。その際に、あるレストランで偶然、アンネの父オットー・フランクと同席。そこで、即席で日本の童謡などを披露することになりました。それに感激したオットー・フランク氏が10本の苗木をプレゼントしてくれたのです。しかしながら、とても厳しかった当時の植物検疫のため、一週間以上放置されて、10本のうち9本までもが枯れてしまうことになってしまったのでした。しかし、唯一残った一本が根付き、今に至ります。

本学には、1994年12月、近隣の聖イエス会マリヤ教会から寄贈され、翌年1995年に初めて開花し、2000年より、茨城県内の幼稚園・保育園、小中高の学校、養護施設や老人ホームなどに、苗木を配布しています。今年の配布で、県内約200団体に配布したことになります(一本はペシャワール会の中村医師を通してアフガニスタンへ)。なお、バラの苗木配布は那珂町の園芸家・浅野益之さんにご協力いただき、また、学園のバラは、バラ愛好家の鯨岡浩子さんのお世話をいただいています。

ちなみに、このアンネのバラ、四季咲きのバラで、手入れ次第では一年中咲かせることができますが、本学では晩秋に大きく剪定をし、春にいっせいに開花するようにしています。また、本学に咲くアンネのバラの美しさと意義に心打たれ、地元の作詞家、作曲家の方が「シオンのバラ」という歌を作って下さいました。大切に伝えてゆきたいと思います。