異文化摩擦を楽しむ 韓国の〈ねばり〉、日本の〈かろみ〉
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つぼにハマれば、語学なんて

異文化との交流は楽しい。
 初めて見た異文化の美術品や建築・工芸品、初めて接した異文化の人たちとの交流、そして異文化の思想や文学を理解できた時の感動。自分の知識や精神に大きなものがプラスされて自分が一周り豊かになったと感じる瞬間だ。
 しかし、異文化との接触は、そうしたプラスばかりが起こるわけではない。時には、様々な摩擦から、自分の無力さを痛感したり、自分の思想や知識の反省を求められたりする、すなわちヘコむことがある。自分がとても小さく見える、マイナスを強く感じる瞬間だ。
 そんな時、自分の限界を感じて、異文化交流から遠ざかってしまう人が多いのだが、しかし、異文化接触の醍醐味とは、実は、このプラスの場面よりも、マイナスの場面にこそある。
 マイナスの場面との出会いは、最初ちょっと辛いけれど、それが何だか、どうしてそうなったのかと考えていると、ある時ふっと腑に落ちるというか、眼から鱗が剥がれ落ちるというか、色々なことが急に見えてくることがある。これは不思議としか言いようのない驚きである。プラスの場面は自分の知識が増えた感触を伴うが、マイナスの場面からの脱皮は、それこそ自分が変化したような、生まれ変わったような感触を伴ってやってくる。
 これを一度経験してみると、異文化との摩擦を避けようとか、克服しようとかあまり思わなくなってくる。むしろ異文化との摩擦に素直に見をゆだねてみよう、もしくは、異文化との摩擦を楽しもうという考えに変わってくる。
 このツボにハマったら、もう占めたものである。もう異文化が恋人のようになって寝ても覚めても・・・である。そうなったら、語学が大変ですとか、勉強がナントカなんて関係ない。三度の飯よりあの子じゃなくって、あの異文化にとなってしまうのである。
 ここでは、韓国と日本にかかわる幾つかの問題を考えながら、異文化摩擦を克服するのではなく、楽しんでしまう方法について考えてみよう。そうした発想こそが、これから異文化との接触に向かおうとする若い人には向いているし、それこそが文化交流学の王道だからである。

イロンシキヤマルロ!

2001年の8月は、なかなかオモシロイ夏だった。緊張感あり、開放感あり、笑いあり、泪あり・・・。
 オモシロクしてくれた原因の一つは日本の教科書問題だった。それが中国・韓国で騒動になった(正確に言うと、大騒ぎになっていると日本に伝えられた)からである。そして、その火に油を注いでくれたのが小泉純一郎首相の靖国神社参拝問題であった。時期としては、そう七月初旬あたりだったろうか。
 七月末日から、韓国ソウルにある明知大学校への短期留学の引率をする予定だった私は、しかし、いたって変わらずに暢気だった。それは、そうした性格の故でもあるが、中国や韓国の大騒ぎというのがマスコミの煽動で、実態はそれほどでもないということが何となくわかっていたからだ。だから、幾つかの教育機関で、韓国への留学・交流をとりやめますというニュースが流れても、同じ大学の先生から、真顔で大丈夫なのかいと言われても、ケンチャナヨ(大丈夫)ってな感じで答えていたのである。
 ところが、一緒に韓国へ行くことが決まっていた学生の一人から、親が心配しているので、留学を考え直したいという連絡が入ってきたときは、さすがに、これはちょっとヤバイなと思い始めた。仲間の動揺は連鎖反応を引き起こす、山登りとそれはまったく同じだからだ。
 では、まずは現地調査ということで、さっそく韓国に電話やEメールで連絡を取り、状況を聞いてみた。案の定、日本で報道されている韓国の加熱振りというのはほとんど嘘で、いつもとそれほど変わらない風景だという。(日本の某有名週刊誌には「韓国で日本人お断りの店続出」なんて書いてあったが、後で実際に行ったときに、ついぞそんな店を見つけることはできなかった)むしろ、この騒動で日本からの観光客が減っている、というのが逆に騒動になっていたらしい。(日韓の間にはこのような騒音のデフレスパイラルというのがよくある)それはともかくも、印象的だったのは、連絡をとった韓国の友人から、異口同音に次のような言葉がでたことである。

 「イロンシキヤマルロ(こういう時期だからこそ)、交流しましょう  よ。」

 留学するかどうかで悩んでいた学生に、この言葉はけっこうインパクトがあった。「厳しい状況だけど、やりましょう」ではなく、「厳しい状況だからこそ、やりましょう」というのは不思議な説得力がある。もちろん、私は、学生には、ありのままの情報を伝えて、彼女自身で判断をしてもらおうと考えたわけだが、考え直した彼女は留学に参加すると言ってきた。「こういう時期だからこそ」という言葉に自分の弱さを突かれたような気がしたというのだ。そしてその言葉に優しく背中を押されたとも言う。
 この「イロンシキヤマルロ」は、言わばこの時の旅のキィワードになった。ぼくも下手くそな韓国語の挨拶で良く使ったが、この言葉は、異文化交流の基本に据えて良い言葉だと思う。異文化交流では様々な問題が起こる。それは原因が相手への理解不足であることが多い。理解不足は不安となって、それが更に増幅されて、結局何かあったら大変だからということで交流そのものが取りやめになってしまう。
 ぼくは留学先の大学近くのレストランで、店のアジュマ(おばさん)お勧めのスジェビ(韓国風ワンタン、辛くないので日本人向き)を食べながら、あの騒動で交流を取りやめた人たちのことを考えた。何ら問題がないのに、誤報一つに動かされてしまう。でも、きっと彼らは問題がないことすら知らない。そう思うと急に空しさがこみ上げて来た。
 交流に問題と不安はつきものだ。そんな時にたじろいで引いてしまうのではなく、イロンシキヤマルロ!と一歩ぐっと前に出てみる。問題があるからこそ行くのだ、不安なときだからこそ一人でも多くの人間が行く必要があるのだと、自分が主体となって問題を引き受けてしまうのだ。そうすれば、もやもやとした霧が一挙に晴れ渡って視界が良好になる。もちろん、そうした精神の姿勢と同時に、事実の調査も必要だ。しかし、このイロンシキヤマルロの精神がないと、否定的な材料ばかりに目が奪われて、結局決断できなくなることが多い。迷ったら、イロンシキヤマルロだ。

韓国は怒る!日本は逃げる?

 よく、韓国の人はケンチャナヨ(大丈夫だよ)精神があると言われる。よく言えばさっぱりしていて、悪く言えば大雑把だということだ。しかし、このイロンシキヤマルロの方が韓国人の精神構造に近いと僕は思っている。韓国人はさほど大切ではないことについては、ケンチャナヨだが、大切なことについてはイロンシキヤマルロでぐっと迫ってくるのである。相当しぶとく粘着質で、説得力があるのだ。
 この韓国の人の強さというか粘着性というのは、直接韓国の人と交流がない人でも、なんとなく感じていることではないだろうか。韓国に関してのニュース映像を目にするだけでも、このことはけっこう伝わってくる。たとえば、約二年前の平成131月に、東京のJR新大久保駅で、酔っ払って電車の線路上に落ちた人を助けようとして、二人の人間が線路上に降り立ったものの、三人ともに命を落とすという事件がおきたことはご存知だと思う。
 まことに、やるせない、しかし助けに入った二人の勇気にたくさんの人が感動したニュースだった。この二人のうち一人は韓国からの留学生李秀賢さんだ。彼の勇気に対しては、韓国本国でも大きく報道され賞賛されたが、ぼくは亡くなったお二人のご遺族の姿を見て、改めて日本と韓国の違いを感じた。韓国留学生李秀賢さんのお母さんは、自分の息子への愛情と悲しみとをストレートに表現していた。なぜ事故がおきたのか、防げなかったのか、また息子がいかに勇気があった優れた人間であったかを、まさにぶちまけるようにしてカメラや報道陣に訴えかけていた。それに対して、日本人の関根史郎さんのお母さんは、何も言わずにじっと悲しみに耐えているようだった。実に対照的な姿だった。
 多くの日本人は、こうした韓国人のストレートな感情表現に接して、より強く悲しみを感じるというよりも、何か恐ろしいものを感じてしまうだろう。そして、そうした行動をする韓国人にいささかの違和感を感じてしまうのだ。よく言われるように、韓国の日本に対する反感を表現して「反日」というのに対して、日本の韓国へ反感を「嫌韓」と言う。誰が言い始めたのか分からないが、日韓の相互感情を実に上手く捉えた言葉だ。日本人が反韓にならずに嫌韓になる大きな原因の一つに、先に述べた韓国人のストレートな感情表現に対しての嫌悪感というものがある。
 こうした食い違いが起きた場合、ま、国や民族にはそれぞれ固有の文化があるのだから、そういうことは仕方がない、それをお互いに認め合って譲り合いながらやるべきだと、もしあなたが考えたら、あなたは良き文化交流の担い手にぜったいになれない。もう、すでにあなたは問題から逃げ始めているからである。ひるみそうになったら、逆に一歩前に出ること、そうイロンシキヤマルロ精神が大切だ。食い違いは厄介と考えるのではなく、食い違いの中にこそ、魅惑的な何かが潜んでいる、食い違いこそ面白い、と考えよう。そう考え始める時、こうした文化の食い違いの問題は、逆に活き活きとした世界を垣間見せてくれるようになる。ここもその例に漏れない。
 まず、韓国のストレートな強い表現をなぜ日本人が嫌うのか。それは、そのストレートで強い主張が自分達に向けられていると感じるからである。教科書問題を例の一つとしてあげるならば、韓国からの日本への抗議に、いつまで我々を怨みつづけるのか、好い加減にしてほしい、というのが大体の日本人が抱いている率直な感情だ。
 一方、韓国人の方も、そうした嫌悪感を感じて問題から遠ざかろうとする日本人に対して、誠実さが足りない、だから日本人は信じるに足らないのだと、さらに反日の感情を過熱化させるのである。

「恨」は解くもの、「怨」は晴らすもの

 「恨(ハン)」という言葉を聞いたことがあるだろうか。よく、韓国人の感情を説明するときに使われることばである。この「恨」については多くの人が様々な説明をしているけれど、要するに、悲しみや辛さや憎しみなどの感情が鬱積して心の中に残ったものである。これをそのままにしておくと良くないので、韓国人は「恨」を発散させようとするのだが、この発散の態度が日本人からすると激しい自己表現に見えるのである。しかし、重要なのは、それはあくまでも自分の内にある「恨」を分散しようとするもので、他人に対してそれをぶつけるものではないことである。
 日本では「恨」を「うらみ」と読む。「うらみ」は晴らすもので、その感情は他人に向けて発散される。日本の夏の風物詩である怪談に出てくる幽霊が、「この恨み晴らさでおくべきか」と言って自分を陥れた人間に祟るのは有名だが、日本人は「恨」=相手にむけて晴らすもの、という認識を持っている。しかし、韓国人の「恨」は他人に対しての向けれらるものではない。あくまでも自分に向けて行われるのである。だから、韓国人は「恨」を「晴らす」と言わないで、「解く」という言い方をする。「解く」主体と方向はあくまでも自分である。
 この日韓の違いを初めて説明したのは、李御寧氏である。氏は「「春香伝」と「忠臣蔵」を通して見た韓日文化の比較」という論文の中で、韓国の代表的な文学『春香伝』と日本の同じく代表的な文学『忠臣蔵』を比較しながら、韓国人の「恨」と日本人の「怨」の違いを説明している。
 この考察がとても重要なのは、日韓の文化比較の考察として面白いということだけではない。実際に日韓に横たわっている、教科書問題のような感情の行き違いによる問題を、それこそ、上手く解きほぐしてくれる可能性があるからである。
 たとえば、韓国人が「恨」を解こうとするとき、それは自分自身に強く向けられたものなのだが、それを知らない日本人は、日本人自身に対して反抗の矛先が向けられていると必要以上に感じてしまう。日本人は「怨」のレベルで韓国人の「恨」を捉えてしまうからである。一方、韓国人の方も、日本人の「怨」という発想を知らないので、「恨」から逃げ出そうとする日本人を不誠実だと誤解してしまうのである。
 これは、目の前に起きている問題を、相手の目線に立って考えるのではなく、自分のレベルに引き付けて理解するために起こる典型的な相互誤解である。交流時におこる意識の食い違いの原因はほとんどこれである。

「忙しいけど着てください」で、君は行く?

たとえば、少し前にこんなことがあった。
 私が韓国へ旅行しようとした時、親しくしている韓国の友人と連絡をとった。日本で彼に会ったとき、韓国へ来る際はぜひ連絡が欲しい。自分の家にぜひ泊まってくれと言っていたからである。ところが、彼から戻ってきた電子メールには、今は仕事が始まったばかりで忙しく、また家が狭く不便だろうけど、大丈夫だから家に来てくれと言う。何回かのメールに同じことが何度も書いてあったので、私は彼は相当無理をしているのではないかと思って、そんなに無理をしないでいいよ、こっちは気楽な旅だし、また何度でも韓国へは来るからという返信を出した。ところが、彼から戻ってきたメールには、私のメールに対するとまどいが書かれていた。私の方が年上で先輩なので決してストレートな表現はなかったが、私のメールに対する不安と不満が、ここかしこに読み取れた。そして、自分の家が不便云々というのは一応の謙辞に過ぎないので、是非家に来て欲しいと言う。
 日頃、韓国語を教えてもらっている大学院生に次のようなアドバイスをもらった。

「日本人が不便だし粗末だけど家に来て欲しいということを何度も言ったら、それはあまり来て欲しくないということを、言外の仄めかしていることになりますよね。日本人が本当に来て欲しい場合は、その障害になるようなことは一切書かないでしょう。そればかりか、来て欲しいと書いてあっても、本気にしないのが日本人ですよね。私も日本の友人が葉書かなんかに、近くにお寄りの際はぜひ家に来て欲しいというので、本当に行ったら、何で来たのって顔をされて驚いた経験があります。引越し案内に、お近くにお寄りの際はと書いてあるのを見て、それじゃって行く日本人はほとんどいないでしょう。」
 でも、韓国人はそれと違うというか、反対というか、忙しいけど来て欲しいと書いてあったら、文字通り来て欲しいのです。「忙しいけど来て欲しい」という言葉の「忙しい」に日本人は力点を置いてしまうけれど、韓国人は「来て欲しい」に力点があるのです。また、昔ながらの両班(ヤンバン)の伝統と言いますか、韓国人は人をもてなすことをとても重要なことと考えます。」
 ぼくは、なるほどと深く考え込んでしまった。同じように敬語を大事にする文化をもった両国だけれど、微妙に、しかし深く決定的に違うものがそこにはある。そして実際の交流の時に、この微妙だが決定的な違いは大きな力を振るうのだ。
 「忙しいけど、来て欲しい」という文章の「来て欲しい」に力点を置く韓国の考え方は言わば論理的である。文章の構造がそうなっているからだ。しかし、日本語においては論理的にはそうでも「忙しい」という言葉を一旦出したら、それが論理以上の力を生んでしまう。だから、日本人は、来て欲しい時には、ぜったい「忙しいけど」という言葉を使わないのだ。言葉の論理を重視する韓国人、言葉の雰囲気・感受性を重視する日本人と言うべきだろうか。
 よく言われるように、韓国語と日本語は語順(文法)がほとんど同じで応用が利く。頭に浮かんだ日本語を逐語韓国語に置き換えて行けば、だいだいは韓国語として通じるようになる。また、日本語の「てにをは」に当たる助詞が、韓国語にもあってかなり近い言語だと言える。ところが、今述べたような論理性と感受性という区分けが正しいとするなら、これほど言語に対して対極的な考え方をしているのもまた珍しいのである。
 こうした違いがどこから生じたのかは、すこぶる面白い問題だが、それは今後の研究に委ねるとして、大切なのは、異文化交流にはこうした微妙だが深い問題がいくらでも横たわっているということである。これを、異文化なんだから違って当然というように簡単に片付けてしまうのではなく、じっくり考えてみることが大切だ。そうすると、思いもしないような発見に遭遇することがよくある。そしてその発見は、今まで外国の友人との間にあったわだかまりの霧を一瞬のうちに晴らしてくれたりする。この、切れば血の出るような世界が文化交流学の醍醐味である。かび臭い机の上の学問に、この面白さはない。

一度は見るべし「風の丘を越えて」

 いささか、脱線したので、本題の「恨」に話をもどそう。
 韓国人の「恨」は韓国人の人生観に深く根ざしている。たとえば、2002年に日韓合同制作(前半をTBSが、後半を韓国MBS側が制作)されたテレビドラマ「フレンズ」にもそれはよく現れていた。この作品は、日本においてはTBS系列で放映されたもので、日韓の若い男女の恋愛を通して、両国をめぐる様々な問題を作品化したものだが、こうした若者むけのドラマの中にも「恨」はしっかり根をおろしている。
 映画監督をめざす韓国人大学生ジフン(ウォンビン)は東京のデパートで働く日本人の智子(深田恭子)と香港で出会い恋におちる。ジフンが智子との恋愛と映画監督への道に進むことを親たちに認めさせるべく説得するが、親とくに父親は絶対に許さない。二人は、別に二人を恋する友人がいて、その人間たちの妨害もあって別れざるをえなくなるが、最後にジフンは、智子との愛を獲得するために、また親を説得するために映画界に挑戦しつづけて、ついに映画監督賞を取る。ジフンの成長を目の当たりにした親たちはジフンが自分の好きなように生きることを認める。ジフンと智子はついに結ばれる。
 この、ジフンが監督賞を取る場面、日本人から見ればいささか予定調和的で安直な筋とも受け取れるが、ここにはさりげなく韓国人の「恨」が描かれている。自分の中に鬱積した悔しさ辛さ悲しさ、その「恨」はあくまでも自分で越えなくてはならない。親たちがジフンを認めたのは、そうした「恨」を乗り越えて自立した姿を息子の中に見たからである。 この「恨」、そのものをテーマにした映画作品がある。『西便制(???)』(日本タイトル「風の丘を越えて」、一九九三年韓国制作、監督は林權澤(イム・クワンテク))である。
 この作品は、韓国の吟遊詩人とでも言うべきパンソリ旅芸人の歌と人生を描いた作品である。パンソリの実力者でありながら、中央を追われて旅芸人として生きることになったユボン(キム・ミョンゴン)は、二人の子供を引き取って育てていた。一人はソンファ(オ・ジョンヘ)という娘で、一人はトンホ(キム・ギョンチョル)という男の子であった。ユボンは二人をパンソリの歌い手と奏者に育てるべく毎日厳しい修行をさせていた。しかし、トンホは貧しさと父親の一方的な指導に耐え切れず、父姉を捨てて逃げ出してしまう。ユボンはソンファに芸を極めさせるため、また逃亡を防ぐため、ソンファの目をつぶしてしまう。ユボンの死後、ソンファは盲目の旅芸人となって全国を歩き回り、芸の世界を極める。
 この作品の圧巻は、父親のために目の光を失ったソンファと、そのソンファを探していた弟のトンホがやっと出会い、最後に二人でパンソリを競演する場面である。名乗らずともお互いが分かった二人は一晩パンソリを語り明かす。そして、次の日の朝、ソンファは昨晩やっと「恨」を越えることが出来たと宿の人間に言う。父親への想いと恨み、弟への思慕、そしてパンソリへの情熱、心の中に鬱積した様々な想いを、芸の道を極めることで解き放った一瞬であった。「恨」とは晴らすものではなく、解くものという定理が、ここで極めて厳しく、そして美しく結晶化されている。

日本人はあま〜い民族?

 こうした「恨」は、日本の風土にはない。日本の芸道の世界には、これに近いものがあるが、それは一部であって、「恨」のように韓国全土に染み渡るようにして広がっているものでは決してない。
 では、韓国の「恨」に対して、日本にはどんな特質があるのだろうか。李御寧氏は、韓国の「恨」に対して、日本の「怨」を挙げている。たしかに、日本人の怨嗟の気持ちはよく相手に向けられる。「恨」のように自分自身に向けられるのではない。しかし、この「怨」は日本人の心を支配しているものと言えるだろうか。
 これにはNOと言わざるをえない。たとえば、李御寧氏のあげた『忠臣蔵』だが、ここには確かに主君の仇を討つために、怨みを晴らすために苦渋の生活をした武士達の世界が描かれる。歌舞伎作品の独参湯(気付け薬のこと、転じて何時出しても必ず大入りになる作品のことを指して言う)と言われたほど、人気のある作品ではあるが、江戸時代の敵討ちの研究を紐解いてみると、こうした主君の仇を討とうとした例は他にほとんどなく、この事件自体が実に珍しいものであったことが分かる。すなわち、日本人にしては珍しく一途でしぶとい精神の持ち主であったからというのが、人気の秘密であるらしいのだ。
 日本人は昔からそうであったかどうか即断できないが、「恨」にしても「怨」にしても、そうした強い感情を長く持ちつづけることの出来ない民族だと言った方がいい。むしろ、転機の速さ、俊敏さこそが骨頂であるというべきだろう。
 この点については、坂口安吾が言っていることが実に的を射ていると思われる。「講談を読むと、我々の祖先ははなはだ復讐心が強く、乞食となり、草の根をわけて仇を探し廻っている。そのサムライが終わってからまだ七、八十年しか経たないのに、これはもう、我々にとっては夢  の中の物語である。今日の日本人は、およそ、あらゆる国民の中で、おそらく最も憎悪心の尠い国民の中の一つである。」
 このあと、安吾は、アテネフランセでフランス人のコットという先生に「殺してもなおあきたりぬ血に飢えた憎悪を凝らし」たような眼で睨みつけられた経験を語ったあと、つぎのように言う。

 このような眼は日本人にはないのである。僕は一度もこのような眼を日本人に見たことはなかった。その後も特に意識して注意したが、一度も出会ったことがない。つまり、このような憎悪が、日本人にはないのである。「三国志」における憎悪、「チャタレイ夫人の恋人」における憎悪、血に飢え、八つ裂きにしてもなおあき足りぬという憎しみは日本人にはほとんどない。昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情だ。およそ仇討ちにふさわしくない自分たちであることを、おそらく多くの日本人が痛感しているに相違ない。長年月にわたって徹底的に憎み通すことすら不可能にちかくせいぜい「食いつきそうな」眼つきぐらいが限界なのである。
 「昨日の敵は今日の友という甘さが、むしろ日本人に共有の感情」とうのは、日本人にしみれば、あまり面白くない話だが、やはり納得せざるをえない。
 では、韓国の「恨」に対応する日本人の特質とは何が考えられるのだろうか。
 これについては、いろいろな考えがあるだろう。これをお読みの方にもぜひ考えて欲しいのだが、私は「かろみ」というものを考えたりしている。

〈かろみ〉の極意は捨てるにあり

 「かろみ」というのは、俳句の始祖と言われる松尾芭蕉が晩年に言い始めた一つの美のあり方である。芭蕉は有名な「おくのほそ道」の旅から帰ってきたあと、様々な経験を経て、この「かろみ」の境地に至るようになったらしい。芭蕉研究では、この「かろみ」について様々なことが言われていて定説というものが定まっていないのが現状だが、要するに、「軽やかさ」が持っている良質の部分・世界と言って間違いない。  芭蕉の人生を鳥瞰してみると、彼が実に様々な境地にいたり、そこからまた努力を重ねて他の境地を探り求めていることがわかる。表にまとめてみよう。

芭蕉の年齢 句風 代表作品
青年期から三十四才頃まで 貞門風 『貝おほひ』
三十九才頃まで 談林風 『江戸両吟集』
四十一才頃まで 漢詩文調 漢詩文調
四十三才頃まで 風狂 『野ざらし紀行』
『冬の日』
四十六才頃まで わび、さび 『ひさご』
四十八才くらいまで しほり・ほそみ
うつり・ひびき
『猿蓑』
晩年 かろみ 『炭俵』『続猿蓑』

  こうした芭蕉の一生を見る時に、重要なのは目まぐるしく自身の境地が変わっているということと同時に、一旦到達した境地をいとも簡単に捨て去っているということである。実はこの捨てるというのが人間一番に難しいと言ってもよい。人は努力して勝ち取ったものにどうしても拘泥してしまう。それから離れられない、そこにしがみ付いてしまうということがよくある。それが他人に評価されたものであればなおさらのことだ。しかし、芭蕉はいともあっさりとそうした獲得した境地を捨てて次の目標へ飛び移ろうとする。
 「かろみ」の境地とはおそらくこの「かろやかさ」のことを言うのである。だから単なる軽薄さとは全く別というか対照的な態度なのだ。私は日本人の中に、この「かるみ」が息づいているのではないかと考えている。江戸時代から明治時代にかけて、西欧の列強に伍しながら、自身の過去を振り捨てて新しい国づくりに邁進したこともそうだったろうし、第二次世界大戦後のどん底からの急速な発展もそうした「かろみ」の成せる業ということができるのではないかと考えている。
 ところで、面白い事に、韓国には日本の俳句や短歌に対応するものとして、時調(シジョ)というものがある。俳句や短歌のように定型詩ではないが、短い言葉の中に自らの心情を込めて詠うものである。この時調の特質が「クンギ(ねばり)」だと言われる。一つのことを徹底的にこれでもか、これでもかと執念深く詠い続けるのである。
 例えば高麗時代の鄭夢周という人の時調に

この体が死に死んで、百回も改めて死んで、白骨が土になり、魂もあるのかどうかさえ分からなくなっても、王様への私の一途な忠誠心は変わらないのだ

 というのがある。この歌自体がかなり「クンギ」に満ちているが、こういう歌を何人かの掛け合いで、また自分だけで何句も連ねて歌うのである。こうした粘り強さは日本の詩歌にはない。日本の詩歌は、基本に四季の移り変わりがあり、その変化の妙を美しくさわやかに歌うのである。そして歌の内容も、論理的な積み重ねでなく、そこはかとなく浮かび上がってくるイメージを大切にする。
 たとえば、平安時代の末から鎌倉時代初期に活躍した歌人の藤原定家に、つぎのような有名な歌がある。

見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ

意味は「見渡してみると花も紅葉も何もない浜辺だなあ。その浜辺のわびしい家がある秋の夕暮れは一段と淋しいものだ」ということになる。この歌のねらいは、「花も紅葉もない」と言っているところである。普通、「花」や「紅葉」がないといえば、それは何も美しいものがないということになるが、それは論理であって、ここでは無いといっても、すでに「花」や「紅葉」という言葉を出しているので、読者はそれをイメージとして受け取ることになる。すなわち、さびしい浜辺の夕暮れの景色の背後に、美しい花や紅葉の姿を透かされるように、二重写しのようにして見るのである。さきに韓国人の論理性重視に対し日本人の感受性重視ということを言ったが、同じことがここにも表れているのである。

日韓の文化交流にハマる

韓国への短期留学に始まって、日韓美学の比較論まで話はひろがってしまった。私の言ったことが当たっているかどうかは分からないが、文化交流学の楽しみとは、実際の経験をきっかけに様々な考察を行って、それをまた実際の経験に生かせることである。今回考えてみた韓国の〈ねばり〉と日本の〈かるみ〉、こうした考え方でよいのかどうか、これを書いている今は2002年の9月6日だが、この9日から約二週間、韓国へ行く予定である。その折に触れる様々な風物・人情を経て、この考えが正しいのかどうかまた考え直すことになるだろう。その繰り返しによって、一つ一つ自分の考えが深まってゆくのである。
 それにしても、日本と韓国の交流学は面白い。自分でもかなりツボにハマってしまったようなのだが、どうしてなのか、自分なりに思うことが二つある。それは韓国と日本は古くからまるで兄弟のようにしてアジア文化圏の中で生きてきたのに、様々な面で大きく異なった文化を生み出してきたからである。よく、日韓を近くて遠い国という言い方をすることがあるが、文化面で言えば似て非なる国なのである。どうしてそうなったのか、ここに私の一番の興味がある。それから、もう一つは、今のこととも関連するが、韓国を見ることで日本の本当の姿を知ることができることである。
 よく言われることがだ、日本人ほど自分が他の国からどう見られているのかを気にする国民はいないらしい。日本で出版されている日本文化論の多様さを見てもそれは首肯できるのだが、しかし、それらのほとんどはヨーロッパやアメリカ、またはアフリカ・中東といったところである。アジアの比較論でも中国がほとんどである。ところが、お隣の韓国との比較論はほとんどない。
 この盲点を初めて突いたのは先にもあげた李御寧氏であった。彼は「「縮み」志向の日本人」(学生社)という本で、それまでの外国と日本との比較論で結論されている日本の特色の多くが韓国にも当てはまることを指摘したのであった。これは当然のことであって、日本の特色を考えるなら、まず第一にすぐ隣の中国や韓国との比較を行わなくてはならないはずである。そうした手続きをとらない考察とは、言うならば、英語と日本語を比較して、日本語の特徴は漢字にあると結論するようなものである。
 どうしてこんな初歩的ミスが日本文化論の中で堂々まかり通ってきたのか、また今でも行われているのか、むしろ、その点の方に興味がわくが、それはともかく日本の特質と言われているものの中に韓国という視座を導入するとき、それまでにはなかった新鮮な問題が発見されるのである。
 この点については別の機会に譲るしかないが、日本の文化とは何か、風土とは何か、伝統とは何か。これを真摯に考えるとするならば、韓国との交流学を第一に考えなくてはならない。そこから再スタートするしかないと私は考えている。