はじめのことば   →韓国語
  なぜ、交流が必要なのか
 いよいよ、21世紀をむかえました。
21世紀は14,5世紀の大航海時代に匹敵する“大交流時代”ともいわれます。よってますます文化交流は重要な意味を持つことになるでしょう。おそらく、そのことを否定する人はいないはずです。しかし、その文化交流とは、一体何なのか、その本質的な意義をどこに見定めるべきなのかと考えた時に、明快な答えを用意することが出来る人は何人居るでしょうか。


 文化交流という言葉には、一般的に、国や共同体がお互いの理解を促進するために、使節を派遣したり、その国・共同体特有の民族文化を披露しあったりなどという、いささか大層で浮世離れした響きがあります。しかし、今はそうしたレベルでこの問題を扱うことはできません。もっと切迫した日常化したレベルで、この文化交流を考えなくてはなりません。

 たとえば、昨今多くの日本人が海外へ渡航するようになりました。また、日本でも街中で外国人を見るのが一般的になりつつあります。それは多くの好ましい成果を我々にもたらしてくれていますが、また、多くの問題を引き起こしてもいます。こうした日常化してゆく交流の中で、我々はどうあるべきなのでしょうか。

 実は、この事態に対処するためには、我々自身が発想の転換をして、大きく変わらなければなりません。それは単に、外国の人々や文化との接触のレベルで済む問題ではありません。我々は考えなくてはならないあらゆることの基礎に、交流という発想を置かねばならなくなってきています。そこで、私の専門である日本の江戸時代を例にして、その点について若干述べてみたいとおもいます。そして、このホームページの目指すものの一端を、その中から指し示してみたいとおもいます。

 江戸時代は後世「鎖国」と呼ばれた海禁策で、日本からの海外渡航の禁止や文物の輸出・流入に制限を加えました。この鎖国の功罪については様々に言われていますが、今という時点からみて重要なのは、この時代に自国と外国にたいする或る特殊な見方が人々の心を捉え始めたことです。とくに他の東アジアの国にたいする蔑視と日本にたいする尊崇の感情です。普通、他の東アジア諸国にたいする日本の蔑視は、明治以降に始まったと考えられていますが、それは小島康敬氏も述べているように誤りで(『鏡の中の日本と韓国』)、すでに江戸時代のそれも比較的早い時期から顕著になってきていました。

 たとえば赤穂藩の藩儒として峻厳な武士道を鼓舞した山鹿素行(1622〜1685)は、李氏朝鮮は日本の属国で武威がなく征服するのは簡単だと豪語しています。また正徳の治で有名な新井白石も、朝鮮は信義のない国で狡猾で信ずるに足りないと言っており、国学を大成した本居宣長も朝鮮は琉球と同じく日本に服して当然との論を展開しています。もちろん、江戸時代の思想家がすべて朝鮮蔑視であったわけではありません。素行と同じ儒者でも藤原惺窩(1561〜1619)や山崎闇斎(1618〜1682)は朝鮮の文化を高く評価しました。また木下順庵門下で新井白石と同窓であった雨森芳州(1688〜1755)は、今から見ても先進的と思われる文化相対的な立場にたって、朝鮮と日本の文化を並列に捉えようとしました。

 ここで重要なのは、惺窩や芳州はもちろん優れた学者でしたが、こうした人たちに比べて他の朝鮮蔑視の発言をしている人たちがけっして劣った学者ではなかったということです。むしろ思考するということでは惺窩や芳州よりも優れた面を見せていたと言っていいでしょう。その彼らがなぜ日本のみを優位におく独我論に陥ってしまったのか、また反対に惺窩や芳州がなぜ独我論に陥らなかったのかが問題です。惺窩・芳州と他の人たちとの人生を比べてみる時、その理由がおぼろげながらも理解されてきます。それは、他国の人間との交流の有無です。

 惺窩は秀吉の朝鮮侵略の時に日本に連れてこられた儒者姜との親交がありました。惺窩は姜の清新な人柄に触れ、儒教に深く傾倒していったといわれます。また、芳州は対馬藩の藩儒で、朝鮮と日本の間に立って東奔西走した外交担当官でした。彼らは日本と朝鮮の間に自らの思考のスタンスを置いていたと言っていいでしょう。この二人に比べますと、素行や白石・宣長には外国人との目立った接点はありませんでした。こうしてみると、交流というものが如何に重要かが分かってきます。また、交流という視点を持たない思考が如何に危険かということも同時に理解できます。おそらく、素行にしても白石、宣長にしても、外国人との直接的な交流があれば、自論の非に気づくチャンスがあったのではないかと思われます。しかし、そうしたチャンスを彼らから奪い、深い独我の谷に落としてしまったのが鎖国でした。そして、彼らの独我論は明治以降に現実的な力となって他国の侵略の後押しをしてしまうことになります。鎖国の罪の第一はここに求められなければなりません。

 こうした江戸時代の経験から我々が学ぶべきことは、交流という視点から物事を考えてゆこうという姿勢です。現在、東アジアの諸国は大きな問題を抱えつつも急速に親交を深めつつあります。21世紀はますますそうした交流が盛んになり、関係も複雑化することでしょう。こうした情況下で重要なのは、純粋なる国内問題というのは存在しなくなるということです。外交、政治といった大きな問題のみならず、地域社会の細々とした問題においても交流を軸に考えてゆかねば解決できない時代が来ているのです。そうした視点を持たなければ、昨今の教科書問題や外国人参政権の問題が良い例のように、ナショナリズムの台頭を引き起こしていたずらに問題を複雑化するだけに終わります。

 実は、江戸時代もすでにそうした世界史的な視点から物事を考えなくてはいけない時期に来ていたのですが、それは出来ませんでした。そして、そこを誤ったのが近代日本のそもそもの失敗だったのです。これは学問においても同じことが言えます。おそらく、21世紀は、歴史で言えば日本史、文学で言えば日本文学という枠組みが意味を失うはずです。それに変わって東アジア史や東アジア文学が必要になってくるはずです。

 こうした動きはまだまだ表面化していませんが、いずれ明らかになってくるはずです。このホームページでは、そうした新しい時代を先取りして、さまざまな試みを行いたいと考えています。未熟な試行錯誤ではありますが、率直なご意見をいただけることを願っております。
                        2001年 2月   染 谷 智 幸