なぜ、本学の文学部文化交流学科に、さらには大学の授業に「日本語」に関するものがあるのか、というお話。
ちょっとかたいです。
そして言うまでもないですが、あくまで本HPの筆者の考えです。いろんな考え方があると思います。
1つには、日本語非母語話者(≒外国人)に日本語を教える「日本語教師」という職業があって、日本語教師になるには日本語のことを知らないといけない。
だから、「日本語教師」になりたいという学生向けのキャリア教育の1つとして存在する、という理由です。
しかし、これは本質的な理由ではありません。
もちろん非常に大事ではあるけど、もしそれだけなら、本学の大多数の学生には関係ないということになってしまう。
もう1つ、より本質的な理由は、自分自身をある程度「相対化」する、その訓練の格好の材料だからです。
皆さんは「日本語はどんな言語か?」と言われて答えられますか。
あまりに漠然とした問いで、答えようもないでしょうか。では、たとえば
「日本語は世界の言語の中でも難しい言語」
「日本語は世界の言語の中でも珍しいタイプの言語」
「日本語は美しい言語」
「日本語は論理的でない、あいまいな言語」
などと言ったらどうでしょうか。
いずれも、どこかで聞いたことがあるような、ありがちな説です。
しかし、そういった説に対して、自信をもって「そうだ」「そうではない」と答えられる人がどれくらいいるでしょう。
こういった問いの答えを探すには、当然ながら日本語の特徴を知る必要があります。
その際、誰もが納得できる形で「事実」を示さないと、水掛け論になります。
「事実」を示すと言っても、難しく考える必要はありません。
日本語は、私たちが普段使っている、もっとも身近なものです。
日本語の文を探してきたりつくったりすることは簡単です。
そうやって具体的な日本語の文の観察・分析を積み重ねることによって「事実」が浮かび上がってきます。
「格好の材料」と言ったのは、こういうことです。
自分自身を、先入観のない、独りよがりでない視点から観察してみる、つまり、「相対化」してみることは、
より深く自分自身を知ると同時に、自己と他者の共通点・相違点を知ることでもあります。
その訓練の材料として、「日本語」を観察してみよう、ということです。
参考資料:「ま・な・ぶっくまーく【科目紹介】日本語学I・II」
茨城キリスト教大学広報誌『my topIC マイ・トピック』14号, 2017年7月.
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