五条坂から五条道に出て、鴨川に向かってゆるやかに下る坂の途中に、古い構えの小さなお香屋さんがある。ずいぶん前に立ち寄ったことがあるが、しばらくその店を思い出すことはなかった。
父を亡くした年、清水から下って、そのお香屋さんの前を通り過ぎようとしたとき、ふと思い出し足が止まった。
店は、幅いっぱいに開け放たれ、外からすべてが見えた。人はいなかった。 記憶がゆっくりと戻ってきた。
狭い店内は、以前とまったく変わっていないように感じた。まるで時間が止まっていたかのようであり、そこここに、何かホッとする温かさがあった。
正面の棚に、 ・・・>>つづきを読む (PDF:127KB)
この4月より本学に特任教員として着任しました。前任校は茨城大学です。その前は秋田大学に在職しておりました。大学の教員を26年間勤めました。若い頃には、小学校や中学校の教員も勤めたことがあります。茨城大学在職中には、大学の授業を担当する傍ら附属特別支援学校の校長も3年間兼任しました。
私の専門は各科教育学としての国語科教育学(教科教育学)です。主な研究分野は綴り方・作文教育の歴史研究ですが、作文・話し言葉の表現教育論、読むことの授業研究論、教師教育論にも取り組んできました。
本学では、教育原理論、教職論、小学校国語科教材研究などの授業を担当します。
私の生まれ育ったところは茨城のひたちなか市です。これまで、東京や秋田と、様々な場所で生活してきました。とりわけ、東北の地・秋田は第二の故郷となりました。秋田大学でのかつての教え子達とは「茨城・秋田の国語教育架け橋の会」という研究会を立ち上げて実践研究の交流を行っています。 茨城県内を始めとして全国各地の研究会に招かれて多くの先生方との交流を行ってきました。教育現場の様々な実践から多くのことを学ばせて頂きました。本学でも、実践的な楽しい授業を心がけていきます。よろしくお願いします。
さて、今回初めてこのコラムの執筆を担当することになりました。自己紹介に替えて、「みる」という行為の教育的意義について書いてみようと思います。 ・・・>>つづきを読む (PDF:190KB)

今、私にはおもしろい仲間がいます。友だち、先輩、師匠…そうとも言えますが、やっぱり「仲間」と呼ぶのがしっくりします。
彼女たち(塩原さん、後藤さん)との出会いは、「常陸太田市男女共同参画プランナー会議」でした。私は当時(13年くらい前)、常陸太田市へ移り住んだまでは良かったのですが、子どもはまだ幼く、大した仕事もできず、自分の気持ちの持っていき場を探していました。そんな時、市の広報紙に載っていた「会議メンバー募集」のお知らせが目に留まったのです。今思えば、こんなお堅い名称の事業(関係者の方々ごめんなさい)に、それも広報紙だけでは何をするのかも分からず、よくも応募したものだと思います。が、焦っていた私は、一も二もなく飛び込んだのです。
そしてその会で私は、「仲間」と出会いました。と言っても、すぐに彼女たちをそう意識したわけではありません。距離が近づいたと感じるようになったのは、今から4年と少し前のことだと思います。きっかけは、塩原さんから空き店舗を利用したコミュニティカフェ開店の計画を聞き、ともに活動を始めたことでした。私たちは、10年以上使われていなかった店舗兼住居の掃除を行うことから始め、どのようなカフェにしたいのか、自分はそのカフェで何がしたいのか、何度も話し合いました。カフェの話が持ち上がったと同じころ、私は現在の仕事に就くことが決まったので、実際の準備に多くはかかわれませんでしたが、話し合いの場に参加することだけで、夢は膨らみました。 ・・・>>つづきを読む (PDF:329KB)
少し前に話題になった「○○歳までにしておきたい10のこと」のような本が出版され私も一冊読んでみました。なるほどと思うこともありましたが、なかなか実際には出来ていません。これは本の責任というよりは私の至らなさに原因があるのは言うまでもありません。しかしながら自分のことは棚に上げて皆さんにこの手のことを進めてみたくなったのですから、少しはこの本の御利益があったのかもしれません。
まずテーマが大事でしょうから少し候補を上げてみます。例えば「大学卒業までにしておきたい10のこと」この題はきっとあると思いますので、少しひねって「大学卒業までにしたくない10のこと」とか「大学1年生でしたい2、3個のこと」思い切って「若いうちにしておきたい1000のこと」、「1カ月でしたい1つのこと」などなどです。皆さんが自由にテーマを考えて頂ければそれだけできっと楽しいと思います。
次に ・・・>>つづきを読む (PDF:103KB)
ある相談員の経験です。
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ある相談員が、中学校に勤務していました。ある放課後、一件の相談面接を終えてほっとしていました。その日は長時間の部活動が行われる日で、相談室の周りには誰一人おらず、シーンとしていました。
その時、遠くから走ってくる足音が聞こえてきたかと思うとあっという間に近くなり、次の瞬間、相談室のドアが急に開きました。そこには、女子生徒が立っていました。しかも、涙をうっすら浮かべながら。相談員は、「おお、どうしたのかな?」と尋ねると、生徒は「相談してもいいですか。」と尋ね返し、相談員がうなずくのと同時にドアを閉め、相談室のソファーに腰掛けて涙を流し始めました。
話を聞くと、「部活でみんなから無視された。とってもつらくて辞めたい。」といった内容を、声を詰まらせ泣きながら語り出しました。話を聞く中で、次第に、一連の出来事が明らかになりました。
その女子生徒は、 ・・・>>つづきを読む (PDF:117KB)
大学教員の仕事は、主に「教育」と「研究」の二つがあります。学生のみなさんが自己紹介をする際には、自分の名前の他に、現在通っている大学名や住んでいる場所や趣味などを紹介することが多いかと思いますが、大学の教員が自己紹介をする際は、出身地や趣味よりも「どんな授業を教えているか」ということに加え、「どんな研究をしているか」ということをまず紹介します。このように、大学教員にとって、自分がどのような研究をしているかということは、大学教員である自分自身を表す上でとても重要な要素であるといえます。
私の場合、自身の具体的な研究内容を聞かれた際には「読み障害の原因と支援について研究しています」といった答え方をすることが多いのですが、ここ数年、研究について聞かれるたびに、何ともいえない後ろめたさを感じていました。それは、大学に勤務してから「教育」の業務に追われ(言い訳です)、まともに研究らしい研究をしておらず、正確に言うと「かつてその研究をしていた」といった状態だったからです。それではまずいと、昨年度くらいから徐々に研究のデータを取り始め、今年度は大学院生の頃以来の、比較的大きな調査研究をすることができました。
研究というのは一般的に、 ・・・>>つづきを読む (PDF:199KB)
早朝の関越トンネルを抜けると、暗い山の尾 根の漆黒に青紫色の薄い光が射し出した。暗い 地上は雪に覆われていた。パワーウインドウの下がる音と同時に、車内に忘れかけていた雪の 冷気が刺す感覚で入って来た。
「これが、ふるさと。」
そろりと六日町インターを降りると、今まで 眼下に見ていた雪に霞んだ幻想の世界にリアル な感覚が進入して来る。
辿り着くまでには、まだ、いくつもの峠を越 えていく。
辺りは青白くなりながら、白い世界は、寒色 の度合いを増していく。フロントガラスに時折、 掻き上げられた壁面の湿り気を帯びた雪が、ザ ザッとささくれる音を出して当たって来る。高速道路から見えた家々のともし火は、冷たく清 んだ雪原に点在する星々に見えた。今、車のガ ラス越しに見えて来る家々は、それぞれの現実を表す。
県道に続く家の前の雪かきの様子を見ると、 ・・・>>つづきを読む (PDF:189KB)
昨年の暮れ、学園キリスト教センターの野口先生から就任以来3回目となるチャペル礼拝の依頼を受け、震災前の1月19日水曜日になって、「権威は敵か?」と題して拙い自説を展開した。選んだのは次の有名な聖句である。
義のために迫害される人々は、幸いである、 天の国はその人たちのものである。 (マタイによる福音書 5章10節)
義のために迫害された人々。イエスをはじめ、多くの先人の名が思い浮かぶ。そこに確かな「義」がみてとれるなら、かれ彼女らは今日の私達の生き方を威嚇するほどの「権威」となるに違いない。しかしそれは決して「敵」ではない、真の敵をさせと言われれば、「権威(Authority)なき権力(Power)」こそがまさしくそれだと大演説をぶった。
僭越には違いないが、それほど間違ったことも言わなかったと自惚れる私の身に、それから2ヶ月を待たずして震災が降りかかった。様々な困難がこれでもかと押し寄せ、貫き通すべき多くの「義」が無力な私の脳裏をあっさり通り過ぎていった。幸い、実に果敢で勇気ある教職員仲間や教え子達のおかげで、 ・・・>>つづきを読む (PDF:194KB)
私の祖父は、教会の牧師をしていた。
大正14年に日本聖公会助川聖アンデレ教会(当時)の司祭として赴任してからこのかた、祖母とともに教会附属幼稚園の園長として、幼児教育に携わってきた。第二次世界大戦前から戦後の激動期に助川町(現在の日立市役所付近)で幼児教育に携わってきた。戦後は教会及び幼稚園を城南町にある現在の日本聖公会聖アンデレ教会及び二葉幼稚園の場所に移し幼児教育を継続してきた。
昭和20年代後半から、当時の油縄子社宅及び八反原社宅の父兄から近傍に幼稚園がほしいとの声が上がり、それに応えて旧日立電鉄線鮎川駅付近(現時点では特別養護老人ホーム「しおさい」の隣に当たる。)に、私財を投じて多賀二葉幼稚園を設立した。(当初は祖父結城光雄が両幼稚園の園長を兼任していたため、二葉幼稚園多賀分園とよばれることもあった。)母も、昭和30年以降、幼稚園教員として二葉幼稚園および多賀二葉幼稚園での教育に携わってきた。
祖父は日本聖公会の司祭を退職してからは私立多賀二葉幼稚園として幼児教育に携わってきた。以降、昭和52年には学校法人結城学院多賀二葉幼稚園となり、現在に至っている。祖父母の没後は父母が幼稚園経営をおこなってきた。数年前からは、私も副園長として幼稚園の運営に携わってきた。
日立製作所の社宅が近傍にあった時代には、日立市役所、神峰公園口方面からあるいは多賀駅・河原子方面から路線バス環状線で通園する園児、また現在では廃止された日立電鉄線で大甕方面から電車通学する園児も含めると200人近い園児が登園していたこともあった。そのために、園庭拡張、プール設置など施設の充実にも努めていた。施設の充実と共に、一時期は1クラス40名近い幼児を抱えた時期もあった。
しかしながら、日本における経済状況の変化とともに状況は変化していく。 ・・・>>つづきを読む (PDF:280KB)
小学校一年生の夏休みに、一人で本が読めるという自信をつけた私が、学校の図書の時間に読んだことをはっきり覚えている一冊が、松谷みよ子の『ちいさいモモちゃん』です。1964年に出版されていますので、小学校2年生の図書の時間だったのではないかと思います。教室の窓側の席に座っていて読みながら面白い場面では声を立てて笑っていたという些細な情景まで覚えているのは、なぜでしょうか? 大人になった今、子どもが初めて自分の力で読み切ることのできる「幼年童話」というジャンルについて学び、自分の記憶を問い直してみると、『ちいさいモモちゃん』という作品の性格と、学校の図書の時間ということが影響していたような気がします。
私が入学したころ1960年代の初めの練馬区では、学校図書館や公共図書館の児童室の整備が遅れていることに気付いた母親たちが、子どもたちによい本をと願って、自宅や団地の集会所などで、子どもと本が出会える「文庫」を開き始めていました。母親自身が子どもの本について学びあう場を作り、人が自らの意思で学ぶ場として公共図書館を充実させようと、ねりま地域文庫読書サークル連絡会が発足したのは1969年でした。子どもだった私が歩いて行けるところには、文庫も公共図書館もありませんでしたし、入学した頃の小学校の図書室は暗く、一年生には手の出せない古びた本しかありませんでした。それでも、子どもの本に関心を持ち長編の物語をクラスで連続小説のように読み聞かせてくれる担任に恵まれ、学級文庫も充実し、図書室も次第に、子どもが行きたいと思うような部屋に整備されていきました。
石井桃子や瀬田貞二などによって英米の児童文学作品や昔話の良質な翻訳が出版され、戦後日本児童文学の転機になったといわれる作品群(佐藤さとる『だれもしらない小さな国』、いぬいとみこ『ながいながいぺんぎんのはなし』、松谷みよ子『龍の子太郎』、古田足日『宿題ひきうけ株式会社』など)が、学校や文庫で子どもたちに読まれるようになっていきます。一週間に一時間の図書の時間は、学級文庫の本でも、家から持ってきた本でもよいけれど、しっかり本を読む時間でした。 ・・・>>つづきを読む (PDF:436KB)

私のゼミでは、遊具と玩具とテーマにしている。子どもの発達と日常的な遊び道具の関係を考えることを出発点におく。考えをまとめレポートにしたり、玩具や遊具作品の制作に生かしたりする。これまでのゼミのレポートでは、玩具の歴史、遊具や玩具の安全性、フレーベルの恩物、人形おもちゃ、知育玩具、テレビゲームやキャラクター玩具といった多様で幅広いテーマが多かった。
ゼミの玩具や遊具作品の制作では、ゲーム盤、プルトイ(ひもを引いて遊ぶおもちゃ)、箱型車など、どちらかというと身近でオーソドックスなテーマの作品が多い。作品の材料は、手に入りやすく加工しやすい木材や植物素材が主である。ゼミのほとんどの学生は、木工による玩具作りの経験がない。したがって、3年次では手始めに積木やジグソーパズルを作り、基本になる木工の技術を身につける。教室には十分な加工設備も整っているわけでもないし、学生たちの玩具作りの力量も初心者の域を出ない。そのため、制作が可能な範囲での創作になり、作品の種類の幅も限られることになる。
しかし、それにもかかわらず、優れた作品が少なからず出る。技術がなければ良いものができないとは限らないもので、初心者の作とは思えないできばえの作品もあった。優れた作品は、発想の段階で決まるといわれることがある。このゼミでの場合は、そのことがまさに当てはまる。学生たちの自由でのびやかな発想が、作品の良さをひきたてる。
そのような作品の中から、特徴的な2点の佳作をとりあげる。 ・・・>>つづきを読む (PDF:242KB)
ふたりの娘が幼い頃、彼女たちは私の腕の中にあった。
私の膝の上で屈託なく笑い、私の胸に顔をうずめて泣いた。何のてらいもなく手をつないで歩き、何の疑いもなく私の声を聞いて育った。
陽は昇り、陽は沈む―。
「いつの間に君たちはこんなに大きくなったのだい?」
わが子にしばしば問いかけながら、私たち家族はここまで歩んできた。
つかまり立ちから一人歩きへ。親の手を振りほどいて走っては転び、涙が乾く間もなく、また遠くへ行こうと足を踏み出す。
親には、「もうこれで子育ても一段落か」と思われる、何ともいわれぬ瞬間が幾度か訪れる。あまり遠い日のことは忘れた。こんなことがあった。 ・・・>>つづきを読む (PDF:114KB)
華やかに充実した19世紀のオペラのなかで、現在世界でその上演回数の多い作曲家といえばヴェルディ、ワーグナー、プッチーニの名を挙げることに異存はないでしょう。そのなかでも、数々の傑作を生んだヴェルディですが、作品には激動の時代を背景に彼自身の平坦ではない生涯と思いが反映されています。他国に支配された民族の愛国心や抵抗、社会のなかで蔑視され、差別されてきた人びと、運命のきまぐれにもてあそばれる人たち、等を真正面からとりあげ、その人々の性格や心理にまで迫ろうとしたのが、ヴェルディです。
中期の三部作といわれる『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』はどれも、常に世界中のどこかのオペラ劇場にかかっている演目ですが、これらの共通点は? そう、皆悲劇です。それだけでなく、主人公が道化のリゴレット、ジプシー(ロマ)のアズチェーナ、そして娼婦のヴィオレッタというぐあいに、全員社会から疎外された者、「道を外れた」とみなされた者であること。けっして社会の中で「まとも」に見られることのない、もちろんどんな権力とも無縁な、いわゆる庶民のなかにもその居場所が置かれていない者たちなのです。
ここでは、前回のカルメンとのつながりで、『イル・トロヴァトーレ』をとりあげてみたいと思います。トロヴァトーレとは封建貴族の居城を中心に活躍した吟遊詩人のことで、ここではロマ(ジプシー)軍団の長となっているマンリーコのことです。しかしヴェルディは、 ・・・>>つづきを読む (PDF:206KB)
いつの頃に身につけてしまったのかは定かではないが、私には、初めての街を訪れた時に無意識のうちにとってしまうある行動がある。それは川を眺めることである。この8月下旬、所用で訪れた南相馬市原町でも、福祉会館近くを流れる水無川の川面やその川が作り出している風景を橋の上から見やる自分がいることに気づいて思わず苦笑したものである。
眺める川は、街中の川であったり街の郊外を流れる川であったりする。とにかく街中の川や町に沿って流れる川を見ると、ついその川面やその川が作り出す風景に目が行ってしまうのである。このような行動に走ってしまうのは、私の中に、一つの思いがあるからなのかもしれない。それは、川とその川が作り出す風景がその町の文化の一端を表現しているのではないかとの思いである。
自然に曲流した川、岸には野の草が生え、川には澄んだ水が流れ、魚たちが群れをなす、街中をそんな川が流れる街には成熟した文化がしっかりと息づいているのではないかとの勝手な思いである。自分の中にそんな思いが入り込んだのはいつのころか定かではないが一つ思い当たる節がある。それは少年時代の体験である。 ・・・>>つづきを読む (PDF:113KB)
私は風呂上がりに、時折、妻から「お父さん、もっと早く上がってよね」と言われるときがある。私が長風呂になるときは、心と時間に余裕があるとき、湯船の中で民話の語りを稽古する時である。長いときには、1時間近くにもなるのだから妻に文句を言われても仕方がない。
私と、民話の語りとの出合いは、今から15年ほど前になる。それ以前、私は民話の語りと言うより、お話の語り方を習いたい、という思いを長い間持ち続けてきた。その原点は、私が小学生時代のS先生だ。S先生は担任ではなかったが、私たちのクラスにきたとき、必ずお話の時間を設け、そこで怖い話、面白い話等様々な話を聞かせてくれた。
そして私自身が教員になってから、子ども達に自己流でお話を語った。子ども達はこちらが思っている以上に目を輝かせて聞き、改めて「子ども達はお話を聞くことがこんなに好きなのだ」と、小学生時代の自分を重ね合わせて思った。そして、いつか本格的に、と思っていたのだ。
15年前の民話の語りとの出合いは、 ・・・>>つづきを読む (PDF:113KB)

100マイル、すなわち160kmを8時間以内で完走する長距離サイクリングをセンチュリーランという。さらに200kmを越える超長距離走をブルベと呼んでいる。いずれも欧米では人気の高いサイクルマラソン大会だ。
たまたま弟からゆずってもらったクロモリフレームのロードレース用の自転車に跨ったのがきっかけで、センチュリーランの世界に入り込んだ。スピード感とルールが気に入った。
8時間以内にゴールすれば全てが勝利者。交通信号遵守は当然であるがドリフト走行禁止(後を付いての走行はダメ)。下り坂での追い越し禁止。パンクしている仲間がいたならば確認の声をかけ合う。赤信号停止の際には後続車に片手でグー・パーのサインを出す。競争ではない。
参加者の大半が中高年層、これもいい。平均時速27~30km走行が基本だと弟に言われているが、20~25kmあたりでもがいている。 ・・・>>つづきを読む (PDF:348KB)
3.11以来、研修会や多くの場で、支援の内容、支援の体験、支援者としてのあり方など聞くことが多く、久しぶりに出会った方々とは自分たちの体験を語ることができた。また、今、自分として何ができるかを模索しているこの頃である。
先日、水戸室内管弦楽団の第82回定期演奏会が、2日にわたって行われた。2日目の7月10日には水戸、東京と1日2回異例のコンサートが催され、東京のサントリーホールでのコンサートは東日本大震災のチャリティーコンサートであった。たまたま東京にいたので、このコンサートを聴くことができた。
コンサートの初めには、「地震が起きた場合には、係員が誘導しますので、席についていてください。この会場は安全です。」というような場内放送が流された。日立市ゆかりの演奏家の方も出演しており、演奏家仲間が支援にあたって行こうという意気込みが感じられた。今回は小澤征爾氏の指揮による演奏会ではなく、指揮者を立てない演奏会であった。
当日配られたプログラムには演奏家の方々のメッセージが載せられていた。 ・・・>>つづきを読む (PDF:107KB)
前回は「評価につぶされた子ども達」について述べました。今回は「映像的に考える子ども達」について触れたいと思います。
【映像的に考える自閉症児】
自閉症児の教育において、「多くの自閉症児は耳からの情報処理が苦手で、目から情報処理が優位である」という特性をいかして、写真や絵を使った授業展開で効果をあげています。あるアスペルガー症候群の人が「私は、物事を考えるときは映像的に考えています」と述べています。その方は、頭の中でビデオ映像を先送り、巻き戻しするような形で考えるのだそうです。(私たちは一般的には主に言語で物事を考えています)
【“線の文化”と“面の文化”】
このことで、かなり前に読んだある論文を思い出しました。それは、 ・・・>>つづきを読む (PDF:106KB)
